作品鑑賞とはすなわち自分との対話の一環である。その作品を通して自分がどう感じたのかを自分自身に問いかけることで、自分自身の心や頭が何を考え何を感じ、そしてそれらはどういう傾向があるのかを考察する。作品は絵画や彫刻、映像だけであるとは限らない。食べ物や飲み物を対象にするときもあれば、車などの乗り物であったり他愛のない食器やそのあたりの草であったりもする。
いずれにせよ人々はそこにリソースを割かないことが往々にしてある。自分との対話とは即ち、記憶の掘り起こしであり自分を形作ってきた物の再認識であり、それらは全てが心地よいものではない。そもそも、この活動は非常に疲れる。だから、美術館に行っても気になるものや話題のものだけを鑑賞したら、それ以外についてはあんまり時間をかけない。
もしも、すべての作品が自分の興味を引くものだけで構成された展示会があったらどうなるのか。脳をフル活用して疲れ果てた人はどうなるのか。その先は何のか。
それは、自分と自分以外の境界線の喪失である。自分がどこまで自分なのかどこからが他人なのか、他の鑑賞中の客なのか、それとも作者なのか。その境が曖昧になってくる。高熱を出して朦朧とする意識の中で立っているときのような、自分が見ている景色は誰かが見ている景色のような。強力な精神汚染。
ドラえもん展はそんな展示会だった。
物心ついた頃からドラえもんというコンテンツに強く惹かれてしまうようになった自分にとって、ドラえもんのみで構成された展示会は夢のような場所であると同時に、精神的疲労を強く覚える場所だった。
一つ一つの作品に強い思い入れを抱き、作者の思いを想像し、それを通して自分の内面を見つめ直す。その一つ一つのプロセスが少しづつ心を蝕む。
流し見をすればいいのではないだろうか? いや、それはできない。なぜならドラえもんだから。
しかし、何となく展示の企画者の意図も感じた。村上隆氏の大型作品「あんなこといいなできたらいいな」に始まりシンヤマザキ氏の「(Pink) Dust In The Wind ~すべては(ピンクの)もやの中に」で終わる作品配置は深く見れば見るほど、破壊され蝕まれる精神状態を表すように見えてならない。
ドラえもん展のテーマはそもそも「あなたにとってのドラえもん」だった。つまり、画家や彫刻家、クリエイターがあるいは子供のときに、あるいは大人になってから見つめ直したドラえもんを自分の形で表現したものだ。この世のすべての作品は受け取り手にとって十人十色、100人いれば101通りの受け取り方があり得る。「あなたにとっての」とは各クリエイターの心の中にあるドラえもんを、言ってみれば各クリエイターの心の中を覗き見する行為に他ならない。
私は人の心を理解することはできないと思う。したがって、人の心の中を覗き見することは自分にとっての「理解の及ばない」エリアを見ることに他ならない。自分の理解ができないものを見ることは即ち自分の精神的限界点を超えてしまうことなのだ。
ドラえもん展にはそれだけのパワーが有った。
気鋭の若手現代アーティスト達によるドラえもん展の展示は、見ているものに対する精神的汚染に他ならない。しかし、自分の心が乱される中で自分という個を保つために自分との対話が生まれる。
自分にとってのドラえもんは何だろうか・・・。それを問いかける機会ともなった。
私にとってのドラえもん。
それは、SFとの出会い。
それは、漫画との出会い。
それは、アニメとの出会い。
それは、藤子・F・不二雄との出会い。
大人になってしまった今では、少年時代との出会い。
ドラえもんと言えば思い出すのは、初めて大学の単位を落としたときのこと。一年生の線形代数学の授業だった。
自分にとって「単位を落とす」とか「留年をする」はフィクションの中のことだった。
キテレツ大百科の勉三さんみたいな、あるいは「アパートの木」の五郎さんのような、どこか昭和の薫りの漂う漫画の中の出来事だと思っていた。
それが現実になったとき、大きなショックを受けた。自分の中の価値観が壊れてしまうような衝撃。自分が自分を保つため、選んだのは「ドラえもん」だった。
てんとう虫コミックス第6巻の「さようならドラえもん」。あるいは大長編ドラえもんの「のび太の宇宙開拓史」。そして、テント虫コミックス第35巻「ドラえもんに休日を」。
自分の中の「泣ける」ドラえもんの話。
これを「泣く」ことこそが、自分自身だと思っていた。落第が決定したときにこれらの作品を読んだ。でも、泣けなかった・・・。
泣くことができなかったショック。自分が自分でなくなるかのようなショックに涙を流した。
なぜここにドラえもんが居ないのか。
いくつかある最終回を除けばドラえもんが居なくなった瞬間は漫画の中では描かれない。大学生になったのび太がタイムマシンを利用していたシーンもあれば、大人になったのび太がドラえもんとの再会を懐かしむシーンも有る(45年後・・・
ドラえもんは最も近くて最も遠い存在だったのかもしれない。近くにいるけれど見つけられない。灯台下暗し。「心をゆらして」探せば見つかるのかもしれない。
今では、そんなこともあったと思える。
結局、自分を立ち直らせたのはしばらくしてから発売された劇場版ドラえもんのDVD BOX だったり、藤子・F・不二雄大全集だった。
自分が自分であること、それはドラえもんを読んで「すこし」笑っていたり「すこし」泣いていたりすること。
そんな、在りし日の思い出を揺り起こすことだった。
ドラえもん展を見に行ってほぼ1年。今では、全国を巡回している。大阪に来る日もあるだろう。
1年前とはもしかしたら「すこし」違う、でもやっぱり一緒な自分を見つめ直すこの展覧会をまた見に行こうと思う。